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SPIRITS JOURNAL

ラムはなぜ「海の酒」になったのか?英国海軍と砂糖の歴史

ラムはなぜ「海の酒」になったのか?英国海軍と砂糖の歴史

ラムはなぜ「海の酒」になったのか——砂糖、海軍、海賊のあいだ

ラムのボトルには、いまも帆船や海賊旗が描かれている。海の酒、という了解は、ほとんど疑われることがない。ところが1731年のイギリス海軍の規則を開くと、ラムは唯一の海軍酒どころか、海外航海でビールに代えて使える数種類の酒の一つとして並んでいる。海賊のイメージだけでは、この酒が何世紀も海と結びつき続けた理由は説明できない。

船の前に、砂糖の島があった

ラムが船に積まれるためには、まず大量のラムが存在していなければならない。それをつくったのは、カリブ海の砂糖だった。

1657年にバルバドスを記録したリゴンは、砂糖を煮詰める工程で浮いてくるカスを集めて蒸留し、「キル・デヴィル」と呼ばれる強い酒にしていたことを書き残している。ラムの初期の姿は、砂糖づくりの副産物からつくられる酒だった。

1655年、イングランドはジャマイカを攻略する。島はその後、砂糖プランテーションの経済へ組み替えられていった。その生産量を支えたのは、大西洋を越えて連れてこられた人々の奴隷労働だった。 砂糖が増えれば、蒸留に回せる副産物も増える。ラムが海へ出る条件は、船の上ではなく、島の製糖工場と、そこで働かされた人々の上に整えられていた。

1731年、ラムは「唯一の海軍酒」ではなかった

1731年の海軍規則には、乗組員に与える食糧と飲料が細かく書かれている。飲料の基準はビールで、1人1日1ガロン。そして海外航海で配給内容を変更する場合、1パイントのワイン、あるいは半パイントのブランデー、ラム、アラックを1ガロンのビールに相当するものとして扱った。

少なくとも規則の上で、ラムだけが特別な海軍酒として扱われていたわけではない。

何を積むかには、好み以上に、その海域で何を安定して調達できるかが大きく効いた。そしてカリブ海と大西洋の航路には、砂糖とともにラムがすでにあった。海軍とラムを結んだ大きな線の一つは、嗜好ではなく補給の側から引かれている。

1740年、水割りはまず規律のためだった

1740年8月21日、西インド諸島の艦隊を率いていたヴァーノンが命令を出す。1人1日半パイントのラムを1クォートの水で割ること。当直士官の監督のもとで調製し、午前と午後の2回に分けて配ること。

背景にあったのは、ストレートのラムを一度に飲み干すことによる酩酊と、それが招く健康と規律の問題だった。

水割りは飲み方の工夫ではない。量、濃度、時間、場所を海軍が握るための設計だった。

この水割りは、やがてグロッグと呼ばれるようになる。柑橘を加えて壊血病を防ぐ知恵として語られることもあるが、1740年の命令がまず定めたのは、ラムを薄め、監督下で二度に分けて配る手順だった。

制度は1970年に終わり、「海の酒」という像は残った

1883年に単行本化された『宝島』のような海賊物語を通じて、海賊とラムの結びつきは強い文化記号として広まっていく。その一方で、海軍のラム配給は物語ではなく制度として続き、20世紀まで生き延びた。

最後の定期配給は1970年7月31日。理由として挙げられたのは経費ではなく、複雑な機器を扱う現代の艦艇で求められる効率と安全だった。同じ酒が、かつては長い航海の補給に適した選択肢となり、最後には任務との両立が難しいと判断された。

制度は終わり、それでもイメージは残った。今日の「ラム=海」という感覚は、植民地の生産と、海軍の補給と、文学の記憶が重なった場所に立っている。

次にラベルの帆船を見るとき、そこにあるのは海賊の冒険というより、砂糖の島と、それを運んだ航路と、酒を配り続けた制度の痕跡に近い。酒に強い文化イメージがついているときは、象徴そのものより、誰がつくり、何が運び、どの制度が反復したのかを追うほうが、輪郭ははっきりする。

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