バーボンは、いつ「アメリカのウイスキー」になったのか
「アメリカのウイスキーを一本」と言われて、多くの人がまずバーボンを思い浮かべる。だが19世紀のアメリカで大きな存在感を持っていたのは、ペンシルベニアのライだった。バーボンが「アメリカのウイスキー」の顔になったのは、いつ、何によってだったのか。
「アメリカの酒」は、最初からバーボンだけではなかった
禁酒法以前のアメリカで、ウイスキーの中心地はケンタッキーだけではなかった。ペンシルベニア西部、モノンガヒラ川の流域には多数のライ蒸留所が集まり、ライは当時を代表するアメリカの蒸留酒のひとつだった。
禁酒法は、その産業に決定的な打撃を与えた。ただし、ライが後退した理由を禁酒法だけで説明することはできない。確かなのは、禁酒法以前のアメリカに「もうひとつの代表候補」があったということだ。だとすれば、バーボンは古いから自然に代表になった、という説明は成り立たない。古さで言えば、ライも十分に古い。
1964年より前に、バーボンは市場の中心へ出ていた
では、いつからバーボンが前に出たのか。数字をたどると、後で触れる1964年の議会決議よりかなり早い段階で、その土台はできている。
米国内国歳入庁の統計では、1953年度に生産されたウイスキーのうち、約81.6%がバーボンだった。これは生産量の話で、そのまま売り場のシェアを意味するわけではない。ただ、販売の側でも動きは同じ方向を向いていた。当時のTIMEの報道によれば、国内ウイスキー販売に占めるバーボンの比率は、1948年ごろの13%から1957年には47%へ上昇している。1963年には米下院の資料でも、バーボンは国内で最も売れる蒸留酒と位置づけられていた。
象徴になる前に、まず量があった。
売れていたバーボンを「American」にしたのは、広告と名称保護だった
量が増えれば、それだけで国の酒になるわけではない。売れているという事実に、意味を与える言葉が要る。
1958年、新たに結成されたBourbon Instituteは、バーボンを「great American tradition」と結びつけ、その名を世界へ広げるキャンペーンを始めた。狙いは商品の宣伝だけではなかった。1961年の議会記録には、海外でバーボンという名称を守る活動が紹介されている。スコッチやコニャックのように、名前そのものを産地に結びつけようとする動きだった。
1964年5月4日、議会はS. Con. Res. 19でバーボンを「distinctive product of the United States(合衆国に固有の産品)」と位置づけた。ただし、これは両院の意思を示す決議であって法律ではない。よく引かれる「America’s Native Spirit」という言い方も、この1964年の決議本文にはない。
当時、米国産ウイスキーの輸出はまだ大きく伸びていなかった。海外市場で成功したから代表になったのではなく、その前に「バーボンという名前はアメリカのものだ」という枠組みをつくっていた。
テネシーウイスキーが示す、「代表」と「定義」は別のもの
現在の制度を見ると、バーボンだけがアメリカを背負っているわけではないことが分かる。連邦規則では、バーボン、ライ、コーンなど複数のウイスキー類が米国固有の産品として扱われている。ただし外国製のライやコーンには原産国を示した表記が認められる一方、「bourbon」は米国外で蒸留・熟成されたウイスキーには使えない。
テネシーウイスキーも国際的に名称が守られている。1994年の米欧間の合意や現行のUSMCAでは、バーボンと並んで米国の固有カテゴリーとして扱われる。それでも「アメリカンウイスキー」と聞いて多くの人が最初にバーボンを思い浮かべるのは、法的な独占があるからではない。分類表の上では、American whiskeyはずっと複数形のままだ。
バーボンは、最初からアメリカを代表していたのではない。戦後に広げた市場の大きさに、広告と業界団体、議会の言葉が「American」という意味を重ねていった。酒の国らしさは、原料や製法だけでなく、誰がその名前を語り、どの制度がそれを守ったかによってもつくられる。